クローンについて - 高橋伸夫


 あなたの体の一部からあなたの複製ができる。一見そら恐ろしいことに思われるが、この研究は今から30年近く前、私が学生だった頃から可能と思われていたことである。それがやっと哺乳動物のヒツジで実現された。この実験に成功したのはイギリスの学者だったと思うが、その成功に懸念した倫理委員会や法皇、更に烏合の衆が大騒ぎをして彼の研究機関への補助を打ち切ったり、彼が罪人扱いされていることに失笑を禁じ得ない。世の中の人達はあまりにも生き物を知らない。日本のマスコミもお粗末で、感情論しか出ない分野の評論家を並べ、不安ばかりを煽り立てる。30年前、この実験が人間で成功したときの例としてヒトラーとアインシュタインが挙げられていたが、今その例として、まさに同じ人物が挙げられている。生物学が総合的に進歩していないことを実感する。

 少し難しい話かもしれないが、この実験は例えばあなたの遺伝の素である細胞核をリフレッシュして、女性の卵子の細胞核と入れ替え、どなたかの子宮で育て、出産してもらうわけである。しかし細胞には核以外の部分にも核外遺伝子というものがあったりして、完全なコピーは難しい。女性が自分の卵子に自分の体の細胞核を入れ、それを自分で出産すれば完璧に近いクローンであるが、遺伝子が半分同じでも全部同じでも、それは自分の子であろう。遺伝子が全く同じの双子や、挿し木で増えた植物がそれぞれ違う生き方をするように、生き物は素質だけで全てが決まるほど単純ではない。孫悟空の分身とは次元の違うものなのである。3O年前、学園祭に何か出せと言われ一晩がかりでB紙に書きあげたのは、「男性不要の時代を憂う」であった。子孫を残すのに男が要らなくなることの方が、よほど深刻な問題ではないか。



 鳥や動物の観察をしていると、例えば同じ1羽の鳥の一生が、それを取り巻く環境や運に大きく支配されていることに気付くことが多い。怪我で落ち込んだ人を例にするまでもなく、生き物はわずかなきっかけで強くなったり弱くなったりするものである。ヒトラーもアインシュタインも、多少非凡な素質があったにせよ、それなりの育ち方、あるいはその時代に生きて、それなりの運に恵まれたからこそ、今に名を残す結果があるのだ。カール・ルイスに双子がいたとしたら、または彼が50年以上前に生まれていたとしたら「少し足の速い人」で終わっていたかもしれない。何十億の人間がいるのだから、彼ら以上に非凡な才能が日の目を見ずに消えていることは多々あると思われる。今、ヒトラーのクローンが居たとすれば、何もしていないのに懺悔を強いられる毎日だろうし、アインシュタインのクローンは世間の期待に潰されてしまうかも知れない。権力者や金持ちの威光が、おのれのクローンの一生に及ぶほど、今の時代はゆっくり流れてくれないだろう。真に警戒されるべきは、心の狭い偶像崇拝主義者である。

 出来るまでの過程はともかくとして、命は生まれた時がスタートである。どの命もたくさんの才能と運が絡みながら一生がつくられる。クローンが自分と全く同じ人間に育つなら、半分クローンの私の娘が私を嫌う筈などないではないか。

 先端技術も重要であるが、生物学の基本は観察である。鳥を知ることは人間を知ることでもある。空想の世界に遊ぶのも楽しいことではあるが、クローンの技術が人間の犠牲になって、絶滅の危機にさらされた多くの種を救うことに期待したい。



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